大阪府宅地建物取引業協会
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南平台ゴルフ会






  ◎ 高槻南平台土地取得の経緯 
取得用地は、昭和30年始め、予てからゴルフ場の経営をしたいと考えていた大阪のある遊技場経営者が当地をヘリコプターで検分しこの土地がゴルフ場に最適な土地であっため直ちに不動産業者(ふかき建設)に当地を買収するように依頼したが、最終的には所有者の数が多すぎて纏まりきれず、ゴルフ場としては出来なかった。不動産業者は纏めた土地を諦めきれず商社(丸紅飯田)に住宅地にしてはどうかと持ち込んで来たと聞いています。尚、当初ゴルフ場として土地を探していた方は、現在の茨木国際カントリー倶楽部を経営された。

丁度、商社も住宅産業に乗り出したい時でもあり買収済みの土地全てを昭和34年12月31日に丸紅飯田株式会社が譲り受けた。そして昭和39年9月30日に丸紅飯田から子会社の丸紅不動産に所有権が移され最終的に丸紅不動産は18万坪を取り纏めた。当時高槻市の人口は13万人と少なく18万坪全部を住宅地にするには多過ぎるために取りあえず、7万坪を住宅地、11万坪をゴルフ場として開発し人口が増加した時にゴルフ場を住宅地に変更する計画を致しました。

 

 
昭和23年 米軍が空撮した元南平台用地
 


  ◎ 昭和38年7月から取得用地の古墳調査
昭和38年の夏休みに大阪府教育委員会の斡旋で高槻市第二中学校の校舎を借りて
京大、立命館大、同志社大、大阪大、龍谷大、奈良芸術大及び大学院の学生や島上高校地歴部生徒を動員し古墳の発掘調査が実施された。
調査は予定より延びて38年10月頃まで掛かった。
用地の中には4世紀ごろの前期古墳が大小合せて十四基ありましたが、内大きな豪族の古墳(弁天山古墳と岡本山古墳)は文部省の要望で残しています。
 

 


昭和38年7月~昭和39年
南平台台地の古墳発掘調査。
開発直前に古墳が見つかり、発掘調査することになりました。

 


  ◎ 昭和41年4月11日  高槻市土地第1次住宅造成起工式 造成着工
開発面積40,000万坪 宅地314区画 施工会社 日本国土開発、新日本土木
 

   

  ◎ 昭和42年2月  高槻南平台第一次(開発面積40,000坪) 宅地314区画完成。
内150区画は建売にし大手の建設会社11社が建物を請け負った。
土地及び建売住宅の販売は、安田信託、東京建物、ふかき建設に委託する。
 

   


  ◎ 設昭和42年4月1日  丸紅不動産に入社 丸紅不動産南平台事務所所長となる
前職大阪市東区北浜2丁目40番地 ㈱中村忠商店(不動産一般業務)に8年勤務してから当時の取引先であった丸紅不動産に転職、昭和42年8月10日高槻市南平台住宅開発のため現地丸紅不動産南平台事務所に家族とともに赴任する。
 

 
昭和42年8月16日 家族と一緒に赴任した丸紅不動産南平台事務所
 


  ◎ 昭和42年 9月 弁天山群集墳記念碑建立
当時(昭和42年5月頃)、高槻市氷室にお住まいのある方から南平台の古墳が発掘 されたため行き先がなくなった古墳の霊が私の枕もとに現れ悩んでいますので早く霊を鎮める碑を建立して欲しいと私に云われました。
上司に相談したところ早速この碑を南平台ゴルフパークのクラブハウス近くに建立し奈佐原の清野住職に拝んで頂き霊を鎮めて頂きました。
その後枕元には霊が現れることはなく、安眠できるようになったと聞きました。
現在その碑は、高槻市埋蔵文化調査センターの入口に移設しています。
 

 
昭和49年9月
南平台ゴルフパーククラブハウス近くに
建立した記念碑

埋蔵文化財調査センター入り口に移設された石碑
 

  ◎ 昭和42年6月  開発地の旧字名を纏めて南平台に名称変更する
丸紅不動産が開発している区域18万坪の字名(郡家、服部、奈佐原、岡本)を東京
の渋谷にある南平台の高級住宅のイメージに因んで同じ名称に変更する。
 

   


  ◎ 南平台住宅地の中に高槻市営バスの新規運行路線が出来る
昭和42年7月1日 高槻市営バスを住宅街の中に入れ新興住宅地の足となった。当時は近藤診療所の前のロータリーで折り返して運行していた。
高槻市は人口急増に伴い、市営バスは市民の足として奥地の開発地に利便性を図った。
 

   


  ◎ 昭和43年4月  南平台ゴルフパークオープン
18万坪の取得用地の内34.4ha(11万坪)をゴルフ場として造成しパブリックコース18H、南平台ゴルフパーク(ミドルコース9H、ショートコース9H)をオープン。
 

   

  ◎ 昭和44年4月1日  南平台自治会設立 防犯電化モデル地区に完成!
会長は清水建設勤務の渡辺三郎さん 副会長 長瀬建三 副会長 小形斗 事務長、私 岡田三郎 役員7名 班長11名 合計18名 
45年が経ち当時32歳だった私が:現在77歳ですから、残念ながら私以外の皆さんは既にお亡くなりになっておられます。
 

   


  ◎ 昭和44年4月  第二次宅地開発(25,000坪) 宅地178区画完成 発売
第1期 78区画 昭和44年4月 発売
第2期100区画 昭和45年3月 発売
178区画の内144区画は水圧が低く高槻市の水道が直接届かず、水圧を上げるため
高架水槽による給水となりその設備等水道管理は全て丸紅不動産が行った。

この給水管理は第3次住宅地開発44区画を含め220区画の給水管理を阿武山に高槻市の水源地が出来るまで10年間続きました。

 

  高槻市の人口増加に伴い、南平台ゴルフ場の宅地開発を予定しゴルフ場の移転先を探す
昭和44年10月21日 大阪府島本町大沢に移転先を確保する。実測総面積34万坪
 

   

   

  ◎ 昭和45年  南平台1丁目土地区画整理組合(市と土地地主) 宅地造成250区画完成 (現在南平台1丁目自治会)
昭和46年 南平台1丁目共同商事(不動産会社) 宅地造成250区画完成 (現在東南平台自治会)
 

  ◎ 昭和45年11月  第3次宅地開発(5,000坪) 宅地55区画 開発許可
高槻市から第3次宅地開発に伴って今後ゴルフ場の宅地開発があるのか否か回答を求められた。
第1次~第3次迄宅地開発に伴う公園、集会所等を先送りした公共施設はゴルフ場の宅地開発で確保する約束事でありゴルフ場の宅地開発、第4次宅地造成マスタープランを作成し高槻市に提出した。小学校用地、保育園用地、公園用地、集会所用地コミニティセンター用地等、公共公益用地を確保した。
 

   

  ◎ 昭和47年4月1日  丸紅不動産南平台事務所所長と島本町大沢事務所所長を兼任
大阪府島本町大字大沢91番地にゴルフ場建設のため現地事務所が出来る
大阪府と高槻市に隣接、許可関係は、大阪府島本町、高槻市、京都府大山崎町、長岡京市と2府、2市、2町に跨った。
ゴルフ場開発に伴い各関係官庁と地元から沢山の条件が出されたが、要望は全て解決し昭和47年12月にゴルフ場の開発許可が下りた。
 

  ◎ 昭和48年4月  大沢ゴルフ場造成工事着工 島本町大沢のゴルフ場の名称は 「ベニーグランドコース」とする
設計会社 ㈱オオバ コース造成関係 新日本土木、堰堤関係 国土開発、
西松建設、給排水関係 浅野工事に決める。
当初は、南平台ゴルフ場と同じパブリックコースとして計画していたが、昭和47年10月に始まった第1次石油危機の影響で工事費が高騰パブリックコースとしては採算が合わなくなり、メンバー制に変更して資金調達をしなければならなくなった。

島本町にメンバー制のゴルフ場に変更したいとお願いに上がったが、良い返事が無かった。当時用地の中に以前から島本町の青少年のキンプ場がありました。ゴルフ
場の用地となった為、移転先を探していたある方と役場で会い私に移転先を考えて欲しいと云われましたので、私は上司にそのことを相談、ゴルフ場用地の外に買収していた土地がキャンプ場として最適な土地であると報告した。

島本町の役場からキャンプ用地として最適な土地があると聞いたので現地を見たいと云って来ました。用地は約1,000坪程ですか大変気に入って頂きました。
このキャンプ場用地の利用とゴルフ場オープン後島本町の住民が特別利用できるゴルフデイーを設けること等の条件で会員制の承認を頂きました。

 

  ◎ 昭和49年9月12日  ベニーカントリー倶楽部 オープン
当初このゴルフ用地を見に来た時は、大変勾配のきつい地形で一見ゴルフ場としては不可能に思いましたが、所有者が少なくゴルフ場としての面積が纏まっていた為
社長が買収することを決断された。
従って、当初苦労して出来たコースは、今一つと云ったところでありました。
 

   


  ◎ 昭和50年10月  高槻市埋蔵文化財調査センター設立
丸紅不動産は、過去昭和38年に古墳から出土した埋蔵物等の整理、保管場所として高槻市が将来埋蔵センターを建設する場合には用地の協力をする約束していたので当時ゴルフ場のコースとして使用していたが、分割して約束を実行した。
 

   

  ◎ 南平台第4次宅地造成計画と高槻市の対応
ベニカントリー倶楽部のオープンに伴い、南平台ゴルフ場の宅地開発計画に取り掛かりましたが、高槻市との間に色々な制約がありました。
当時高槻は人口急増都市として、全国的に有名になっていました。
昭和40年に13万人の人口が毎年2万人づつ増え昭和50年には33万人に急増しました。高槻市は、人口急増に伴いインフラ整備に莫大な費用が掛かるため大型住宅開発を抑制する指導に転換してきました。
人口急増にともない特に上水道、学校用地の不足がありました。岡本山配水地の給水能力が限界で阿武山配水地の新設計画の実現が不可避でありました。

当時の大型住宅開発は当社以外に阿武山の住宅公団、芝谷町の殖産住宅、が控えていました。

 


  ◎ 昭和55年10月  高槻市は大型住宅開発の土地利用転換計画の調査から開発抑制を変更
高槻市は人口急増のため小学校、中学校用地をその他インフラ整備を大型住宅開発の中で確保することが有利と考え開発抑制の解除に踏み切った。
 


  ◎ 昭和56年4月  いよいよ南平台第4次宅地造成計画事前協議に入る
丸紅不動産所有 34.27ha 宅地747区画
蔵人土地所有 2.81ha 宅地 47区画
小学校 1校 保育園 1つ 集会所 3ヶ所 公園5ヶ所
 

   

  ◎ 56年4月5日  第4次開発申請に必要な近隣水利組合同意の説明会を実施
高槻市郡家水利組合に浄化槽設備の説明と同じ浄化槽の設置をしている丸紅が街造りした四国備中市備前グリーンタウンの浄化槽設備を案内し同意を得る。
又西之川原水利組合も説明会を行い、生駒市の住宅地の浄化槽設備を案内し同意を得た。
 

  ◎ 昭和56年11月  高槻市市議会は、丸紅不動産所有地南平台ゴルフ場用地内に小学校用地取得を決議する。  

  ◎ 昭和56年12月  南平台自治会に説明会
ゴルフ場開発予定地周辺の隣地承諾も頂きいよいよ地元自治会の説明会に入る

南平台ゴルフ場の応接室で当時の南平台自治会役員の方々に第4次宅地造成計画の説明を行った。
当時南平台自治会には、当社が暫定的に建てた集会所が一つ丸紅不動産南平台事務所の西隣に設けられていたが、正式な集会所の建設は、ゴルフ場の開発の時に建設すると自治会に約束していたので、将来の集会所の設計図面を見て頂いたり、要望事項を聞かせてもらった。
続けて、南平台一丁目自治会と東南平台自治会にも説明会を行った。

 

  ◎ 昭和57年3月  南平台ゴルフ場閉鎖
南平台ゴルフ場の移転先であるベニカントリー倶楽部は昭和49年9月にオープンしており約8年程二つのゴルフ場を運営していたが、いよいよ南平台ゴルフ場の開発が迫ったので閉鎖に踏み切った。
 

   

  ◎ 昭和57年4月  南平台ゴルフ場第4次住宅造成の南平台自治会住民大集合
ゴルフ場の開発は以前から住民の関心ごとでありましたので説明会には沢山の住民か集合しました。
 

  ◎ 住民大集合の結果  開発用地内の都市計画道路(南平台日吉台線)の取り扱い
学校用地等、高槻市の説明も要するため次回説明会から高槻市の助役初め各部長も説明に参加することになった。
 

   

  ◎ 高槻市の説明  都市計画道路は、昭和44年10月に都市計画決定されたので南平台第1次2次住宅地開発完成後の決定であり取消しも変更も出来ないが計画道路の幅員24mは2車線の生活道路とし、大型車は禁止する予定である。
又開発予定地に学校の用地を確保したのは、高槻市の人口急増(昭和55年34万人)に伴い議決したと説明された。
尚、開発者は自治会に開発計画や施工時の事項をよく説明し合意形成を計って欲しいと併せて高槻市から説明があった。
 

  ◎ 南平台自治会とは何回か協議をしたが、南平台自治はこの住地造成で南平台日吉台線の都市計画路線が一部完成すると将来全前線が出来た時に閑静な街の中を大型車に通行され環境の良い街の環境が悪化することに反対。又南平台自治会は開発に伴い自治会内に工事車両が通行することにも反対の立場を取り高槻市に開発許可を下ろさないよう要望した。  

  ◎ 南平台1丁目自治会、東南平台自治とは主に工事中の工事車両通行について協議を重ね一定の条件付き合意に達した。
開発予定地の工事車両は両南平台1丁目自治会内を全て通ることになり、南平台自治会との問題は都市計画道路問題だけになったため、高槻市は一定の合意形成が出来たとして、昭和57年7月19日  第4次宅地造成の許可を下ろした。
 

  ◎ 南平台自治会集会所について
南平台自治会と約束していた集会所の建設については、当初自治会と協議した要望条件は、自治会の役員が変わり開発反対の立場を取ったため、全て白紙に戻りあらたな条件を協議した結果、集会所は近藤診療所前と丸紅不動産南平台事務所西隣の2ヶ所に決まった。当初の自治会のように条件付賛成をした方が住民にとっては良かったのではないかと思っている。
 

  ◎ 平安女学院短期大学の誘致 (昭和55年10月~昭和57年9月)
昭和55年11月 高槻市から平安女学院短期大学を誘致したい旨申出がありた。
平安女学院は、京都上京区下立売通烏丸西入(京都御所近く)にあり、幼稚園、中学、 高校、短大を経営している。当時敷地が狭く文部省から勧告を受けているので移転先を探している。高槻市は大阪京都の中間にあり南平台は環境のよいところで移転先として検討したいと回答があった。
その後、高槻市、大学側、丸紅不動産の三者間で何回か協議の結果、ゴルフ場の北西に11,000坪を平安女子学院に売却することになった。
 

   


  ◎ 昭和57年 9月 南平台第4次宅地造成起工式、第1工区造成工事着工 
地鎮祭は、ゴルフ場パター練習場 式典はクラブハウスレストランに大勢の来賓を迎え盛大に起工式を行った。
 

   

  ◎ 昭和58年4月 1日 南平台小学校開校  

 




 

  ◎ 昭和59年3月 第4次住宅地第1工区1期第分譲開始 38区画 総数171区画
土地坪当り50万円~55万円
協賛ハウスメーカー5社 (大和ハウス工業、小堀住研、ミサワホーム近畿、ナショナル住宅産業、ミサワセラミックホーム)
 

   

  ◎ 昭和62年4月1日  平安女学院短期大学と幼稚園開校  


  ◎ 平成7年 6月 高槻市市営 「あくあぴあ芥川」オープン  


  ◎ 平成9年 7月 高槻市市営 芥川緑地プール「ぷーるぴあ」オープン  


     


     
 
 
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